ta eis shoheiton

新卒入社後9ヶ月で適応障害・退職した男の、回復・社会復帰・プログラミング学習と日常。

価値観の吐露のし合い方がよく分からなくなってしまった。


リバ邸DREAMに住み始めて1ヶ月が経った。

住人やイベントで出会う人たちは多様性に受容的で優しい人たちばかりで、本当の居心地がいい。まさに自分の居場所を見つけたような感覚だ。

そんな幸せの中でも、双葉を開かせた悩みの種があった。

「思いの吐露のし合いってどうやってやるもんだっけ?」
「自分の価値観や主張が怖くて話せない」
などと、いつの間にかコミュニケーションの方法が分からなくなっていた自分がいたのだ。

正直、この本音をこの場で吐露することも恐ろしい。

現状自分が興味のないものには本音を出さず、淡白になってしまう

(以下AやBが登場するが、「車を持つ/バイクに乗る」とか「ビッグになりたい/ミニマルに生活したい」等、自分が想像しやすいものを入れてみてほしい)
例えばどんなコミュニケーションを取っていたかというと、

ある人が、目的Aを達するために行為A’をやりたいと私に吐露する。ところがA‘をしてもその人がAを遂げられないと私は予想したので、A+を提案してあげる。

こういうことは難なくできる。普通だろう。
ただ、次のような主張には困ることが多い。

ある人が目的(価値観)Aを達することの魅力を私に吐露する。ところが私は目的(価値観)Bの方がいいと内心思っているから、私は内心「そうかぁ。Aが大好きなのかぁ。大好きだと思えるものがあるのは良いことだよな。」くらいにしか思えないのである。なんというか、「へぇー!!!いいじゃん!!」となるような感動が薄いのである。

ところが周りを見ているとものすごく感動しあっているので、自分は感受性に乏しいのかと不安になってしまったのである。

さらに自分にとって厄介なのは、価値観AとBが対立的な場合だ。そういう時はAに対して、本当にとことん関心が湧かない。
「何がいいのか全く分からない」
となってしまうのである。

私は機械論的自然観を持つ人間だったり、マシンが好きだったりするので、物事や価値観発生のメカニズムに関心があるから、
その人にとってAが「どんなに/どのように魅力か」ではなく「どうして魅力的に感じるのか」を語ってくれた場合は、結構興味を持って会話する。
ただし、あまりそういうパターンは少ない。

その人の主観からして、Aがその人にとって魅力的である理由は自明なので、端折られてしまうことが多い。
逆に私(筆者)にとってAは未知であろうと予想していることが多いので、Aの魅力の様相をまず最初に語ることが多い。
さらに私はAについての語りをしっかり聞きはするのだが、関心がないとさらにその話を掘り下げようというモチベーションがあまり湧かない。

これには、単に興味がないという心理的な原因もあるのだろうが、それよりも、
価値観の不可侵
を信条としているため、ベルトコンベアーで流れて来て通り過ぎる品(価値観)を見つめるように取り扱う癖がついているのである。そもそも。

ただ、それだと新しい発見もないし、自分の成長もないだろうから、自分も流れてくる品(価値観)を”難なく”手に取って吟味するようになりたいのだが、何かいい方法は無いのだろうか。

対立的な価値観に本音で向き合うことへの不安

まず自分の価値観について

自分の中学以来の性格・価値観は

アクティブというよりも、どちらかといえば”沈静”だ。

そして全ての行為は、自分の最終目的(信念)の実現のための意義/目的/理由を持つべきだと考えている。だから意味のないことはしない。もちろん沈静な状態を保つ”行為”も意義付けの例外ではないが。

さらに矛盾を嫌う。整合性や正当性、全体最適など、理路整然としたものを指向する。

また、安全であることを重視する。これまでの成長も、自分が安全であるために、自分を強化しようという理由から挑戦を繰り返して来た結果だ。

ところが、余談になるが中学1年までは、性格が真逆だった。
理由とか関係なく、好きなことを夢中になって延々とやっているような子供だった。
安全を心配してためらうことは多くなかったし、必要性や理由なども特に意識していなかった。
ところがお受験して行った中学時代の、いじめに近いような出来事で小学生の頃の自分は完全になりを潜めてしまった。
小学生の時は青色が好きで、中学以来の価値観最盛期である高校時代は赤色が好きだったので、少々中二クサいが前者を”青の時期”、後者を”赤の時期”として分かりやすく区別することにしている。

ちなみにリバ邸をはじめとする界隈には、”青の時期”の自分を取り戻しに来ている。
生来の自分はやはり青の時期の自分だろうし、好きなこととか、ワクワクすることとか、そういうものを追いたい心に、素直に生きたい。
だから最近は様々なイベントや人との会話を通じて、直感を大事にすること、フットワークを軽くすること、多様な価値観と出会うことを心がけている。

余談が長くなってしまったが、本題に戻りたい。
現状は圧倒的に赤の”時期”の価値観・思考法が充実しており、本音で話をすることになればそちらがやはり前面に出てくるだろう。

この価値観で、相手の主張に本音で臨んだらどうなるか

「なぜ?」を繰り返し続けるだろうし、それによって相手の最終目的と手段を確認し終えて、その内容次第では「それ必要ないでしょ」という興ざめな指摘も私の口から出てくるだろう。
それでも納得が得られない時は、「まぁ、やりたいならやればいいんじゃない?」という結論に落ち着いて、突き放すというか、さじを投げるような形になってしまう。

こうなるのが怖くてあまり人の主張に、自分の本音を”ぶつける”ことができない。

ちなみに私自身がこういう斬りこむような話し方をする人を相手にした時は、信頼していない限り疲れてしまう。
もちろん自分の価値観や信念と合致するような最終目的・手段を提示して来た相手には常人ならざる凄まじい食いつきを見せるのだが、とにかく両極端なのである。

やはり理想としては、異なる価値観の主張に対しても”自分が無理なく気楽に”かつ”相手と融和的に良い雰囲気で”本音で応じれるようになりたい。
結局、価値観の吐露のコミュニケーションではどのようなあり方が理想なのだろうか。コメントやTwitterでのリプお待ちしてます(Twitterでは長く続くコミュニケーションは避けたい)。

最後にまた余談。
ところでこういう会話の作法を考えるのって、義務教育で大事だと思うんだ。
絶対解があるような教え方も良くないけど、多様性を受け入れる作法のいくつかは持っておいた方がいいんじゃないかと思いました。
本来はおうちで親から学ぶのが普通なんだろうけど、そうもいかない人も世の中にはいるだろうし。